桑田さんが翔く
25年前の初交信  
JJ2SQR 小野田 泰夫
 1986/4/26 約25年前のこと、430SSBで、桑田さんと初交信しました。
それから間もなく、2エリア湖西市でアイボール会があり、3エリアからは車一台で数名、地元静岡からは10数名の参加といった、規模の小さな集まりでした。

 記念の集合写真の撮影の時、こちらで支度したカメラのセルフタイマーが作動しなくなり慌てました。すると、桑田さんが前に出てきて、タイマーんをセットし直してくれ、無事撮影が終わりました。その時、桑田さんが「プロやからな」と言ったことを、今でも鮮明に覚えています。

 あの頃からアイボール会を活発にやっていました。 今の全国ネットのアイボール会を育て上げた偉大な功績は桑田さんであり、発起人そのものだったのではないでしょうか。
 その当時、FM局が、SSBの周波数帯に出没していて困っていました。3エリアでの違法運用局のはびこりは大変でした。そんな環境で、桑田さん各局は、430.170Mhzで常時運用されていました。その周波数に行き、「JJ3TXX聞いている?」と声をかけると、直ちにコールバックがありました。そんななかで、3エリア各局と2エリア各局が、毎週、定時交信をしていました。
 「来週は、どこどこへ行くよ」と情報を交換しながら、次第に参加局数が増え盛り上がっていきました。さらに、他の各エリア間とのスケジュールQSOが、活発になっていきました。
 430.170Mhzで今日のスケジュールを聞き、どの周波数に、どこで移動運用があるかを知り各局が声をかけました。170 = 3エリア=桑田さんが、代名詞でした。それが、170 NETを立ち上げる原点だったとおもいます。
 15年間で、桑田さんとのアイボールは、湖西市をはじめ、全国大会・熱海、同じく全国大会・愛知伊良湖岬の3回でした。
 桑田さんの強い印象は、誰にでも気さくに声をかけ、話すことでした。思えば、あの阪神淡路大震災の時も、被災し全壊した店の前で車のなかで夜明かしをされ、余震が激しくて店内に入れないとの応答がありました。当時は、大阪各局を通じて、災害の実態がリアルに届いていました。
あらためて無線局の価値が健在だとおもいました。後に、全国各地の430SSB愛好者に呼びかけ、募金を集め、大阪の代表局を通してお渡ししました。今、東日本大震災で苦しい時が続いています。なんとか頑張って乗り越えて頂きたいと心より祈ります。
 現在、私は、2001年頃からやむなき事情で、常置場所での運用は閉局し、声を出さなくなりましたが、ずっと170NET NEWS の愛読者でいました。
 或るとき、桑田さんより電話がありました。用件は、店の従業員が、静岡のつま恋にコンサートに行きたいが、帰りが遅くなるので、どこか泊まるところがないか、探してくれないか、でした。
その電話が、彼との最後の電話になりました、従業員想いの彼からの電話でした。

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